日本酒の歴史
果たして本来の日本酒って、何?
本来の日本酒の原材料は米・米麹・水が基本。
しかしながら歴史的影響により、そうでない日本酒が「酒」としてまかり通っていた時代があったために、誤解を受けている様子が今だ続いているようです。それでは歴史を紐解いてみましょう。
魏志倭人伝」の頃には
- 倭人は「酒を嗜む」。
- 喪の際は弔問客が「歌舞飲酒」の習慣ある。
- 酒造りは巫女が行っていた。
という記述が残っていたが、酒の原料や作りのことには言及していなかった。
600年代後半には
宮内庁に造酒司(さけのつかさ)に酒部(さかべ)という部署が出来る。
そして701年の大宝律令により体系化、「朝廷のための朝廷の酒造り」が開始された。
鎌倉時代では
米と同様に酒も経済価値を生み出す産物として流通される。
京都・伏見では自前の蔵で酒を製造し、販売する店舗を持ついわゆる「造り酒屋」の隆盛。
室町時代では
ますまず酒造りがさかんになり結果造り酒屋も資本力を持ち、当時の酒屋の別事業であった「麹作り」まで幅を広げていった。
これと平行して越前や奈良・近江・河内など別の地域では淡々と酒作りに励んでいく。
各地の酒が京都に入ってきて、地元京都ではそれらを「他所酒(よそさけ)」「抜け酒」と呼んでいた。
しかし、これらの流れこそが現在の「地酒」のはしり。
江戸時代では
<前期>
酒造りでは大量の米を必要とすることから、常に食料の供給と競合する。それを回避すべく、
- 「酒株」の導入。
→酒株を持っているものだけに醸造業を免許制にした。 - 寒作り以外の醸造禁止
→「寒作り」が完成する前まで年に5回は醸造していた。
年1回の酒造りとなったために、農民が冬場だけ出稼ぎの場として「杜氏」を請負い、各地の特徴を反映させる現代の形の発祥となった。
<中期>
「伊丹酒」や「池田酒」は評判が高まり、伊丹の剣菱が将軍の御膳酒として指定された。当時の伊丹酒や池田酒は他の酒と比べても高値で取引されていたので、その評判の様子は理解できる。
同時に兵庫・西宮の灘を新興醸造地として注目を浴びだしてきた。
<後期>
1837~1840年に灘に「宮水」が発見される。それをきっかけに海に遠い伊丹から水とアクセスのよい灘へと作りの拠点も移っていた。
明治時代では
<前期>
- 「酒株」の撤廃
→酒造税と営業税に確立し、一気に酒造メーカーも300000軒に達した。 - 自家製酒(どぶろく)も自由に家庭で醸造できた。(但し1年に1石までの制限アリ)
<後期>
1901年 一升瓶にて清酒の発売を開始。
→それまでは酒屋に出かけて量り売りしてもらったり、地元の祭りなどで、樽から皆で酒を取り分けて飲むいわゆる地産地消の形だった。しかし一升瓶の出現により
- 地元でなくてもどこででも飲めるという流通の変化
- 酒を自宅などの持ち帰って食事とともに楽しむという飲み方そのものの変化
一升瓶の出現により、「流通」と「生活スタイル」の変化が起こった。これはある意味劇的な変化。
だんだん現代に近づいてきましたね。
大正時代では
合成清酒の誕生
明治時代後半に工業生産されたアルコールに水を加えたいわゆる「新式焼酎」というのが出来上がる。
そして1920年に合成清酒が誕生。その誕生の裏には・・・・
酒がぜいたく品とされた当時「本来食用に回るべき米を酒に使うなんて!」といわれていた。
”成分中のアルコールが米に由来しない”ということが近代的でよいことと解釈され、誕生した。
のちの「三倍増醸酒」にも通じる話であり、ここからが酒に関する大きな誤りの始まりとなるわけです。
昭和時代前半では
すべては「戦争」により大きく変化する。
戦争が起因となり、食用の米が不足することにより良質の酒が市場に出回らなくなった。
↓
酒の値段は政府が定める「公定価格」になり、戦後の混乱期から発生する実勢価格(いわゆる闇価格)の横行となった。
↓
需給バランスの崩壊により、酒小売店では店頭に酒樽を出す前に、中身に水を足して出す「金魚酒」(金魚が泳げるくらいうすい酒)が現れる。
<増産酒の登場>
1939年 ワインにアルコール添加をすることにヒントを得て、日本酒にも同様に実施し、増産酒の登場となった。
1943年 戦時中下、”如何に米を使わずに酒を造れるかを研究”し 、その結果、元の清酒の量の3倍になるまでアルコールを添加する、いわゆる三倍増醸酒(三増酒)の誕生となる。
同時期に、酒類すべて配給制となり、もっぱら闇市で取引されるようになる。その価格、半年あまりでおよそ2倍ほどの上昇。まさに異常事態ですね。
昭和中期では
<闇酒の横行>
戦争によって、酒蔵も杜氏も蔵人も大部分を失い、そして深刻な影を落としたのが酒造米の絶対的な不足。(もちろんその前に食料難)
これに反して、
- 兵士たちの復員による飲酒人口の増加
- 暗い世相を反映して飲酒需要が高まった
ことにより、供給が追いつかなくなり、「メチル」「カストリ」「バクダン」等の密造酒が大量に横行するようになった。
ちなみにこれらの密造酒は異常にアルコール度数が高かったり、激烈であったため死亡や失明などの要因であったことから、当時の大きな社会問題であった。
<「三増酒」主流の時代>
その後、米不足などの社会的要因により”その場つなぎ目的”で作った「三倍増醸酒(三増酒)」がなんと日本酒の主流の酒として流通していった。本来の日本酒はどこかに忘れられたままで・・・
結果として本来の良質な酒は見向きもされないままで、その場しのぎの三増酒=日本酒として位置付けられてしまった。
それしか知らない世代にとっては日本酒を飲むことは
- 「頭が痛くなる」
- 「悪酔いする」
- 「おやじくさい」
といった悪いイメージしか日本酒は印象付けられなかった。